アパートの鍵捜します。

夕焼けパルコ。 / hazuijunpei
親愛なるシネワン読者の皆様へ。
極めて不本意ながら、ブログをやめることにしました。
冗談である。
間借人(水木しげると同じ誕生日)が57歳となり、やつの古い作品を公開する羽目になった。
冗談じゃない!
何か節目が来ると、ブログのネタに困る。
冗談である。
ネタに困ってるだろと脅迫され、時代錯誤な短編小説を読まされた。
冗談じゃない!
表題は勝手に僕が差し替えた。
冗談である。
シネワンの品を上げる作品だ。
冗談じゃない!
アルフレッド・ヒッチコック監督みたいにワンカットだけ間借人が登場する。
冗談である。
どんなに慧眼な読者でもオレの正体を見抜くことはできない。
冗談じゃない!
マンハッタン
エレベーターの下の鍵釣り男
3月だというのに、桜の咲く気配がない。
そのせいだわ。従業員通用口で入店証を見せながら佳代子は心の中でつぶやく。長くすらりと伸びた足は、崇の待つカフェへと急ぐが、気持は真逆だ。
一人になりたい。夕暮れの街を歩きながら、家でくつろぐ自分の姿を思い浮かべる。
カフェの自動ドアが開くと、ボックス席に崇の姿が見える。トレンチコートの襟を立て、陽気に右手を上げる。赤ワインを飲んでいる。いつもなら満面の笑みを浮かべ駆け寄るところだが、そんな気分になれない。
「何かあったの?」
「何かって?」椅子に座りながら佳代子は言う。
「トラブルだろ、でなきゃ君が人を待たせるなんてない」
「そうね」本音を言いかけるが、佳代子は思いとどまる。「何か、松本くん病にでもかかったのかしら」
「あいつは時間って観念を放棄した男だ」崇が気取って言う。「一緒にいると『ゴドーを待ちながら』のゴドーを見損なう」
佳代子は感心して崇を向く。ウェイターに白ワインを注文する。「実を言うと」佳代子は伏目がちに言う。「今日一幕も見たくないの」
「おやおや」合点が行ったらしく崇が言う。
「本気よ」
「理由を聞きたいね」
「理由なんてないわ。とにかく家に帰りたいの」
「やっぱりトラブルだろ。お身体の――」
「とんでもない。とんでもないわ」佳代子はわざとヒステリックに言う。「あなた、いつの間にそんな無神経になったの。女の三つの顔を見分けられない男は紳士じゃない、とか何とか言って誘惑した癖に」
「言ってみただけさ」崇がしおらしくなる。
佳代子は白ワインに口をつける。「このチケット、松本くんにいいと思わない。今すぐ誘っても、すっ飛んで来るわ」
「タダしか縁のない男だ」
「でも気のいい人だわ。ホントに。あんなに気のいい人って滅多にいない。彼とめぐり合ったことって石油掘り当てたことに等しいわ」
「大袈裟な」
「何のなのかしら。気のよさとひたいの広がり具合とは正比例するのかしら」
「だろうね」
「やっぱり気が進まない」佳代子はすまなさそうに言う。
「確か学生時代、欠かさず見に行ったよな、石山の芝居…」思い入れたっぷりに崇が言う。
「私たち、いじらしいくらい親衛隊やってた」
「よりによって初演の直前だぞ」崇が声を荒げて言う。「しかも代役とは言え、『欲望という名の電車』のスタンレー役だ」
「マーロン・ブランドの役って素敵よ」
「悪いと思わないのか、あいつに」
「スタンレー石山さん?」
頷きながら崇がワインを飲む。
「もちろん思うわ。誰よりも喝采を送るべきだわ。分ってるの。でもどう考えても、あのブランチ“ヴィヴィアン・リー”デュボアの悲劇性に絶えられそうにないのよ」佳代子はわざと芝居じみた口調で言う。「だってそうでしょ? 今日の私って、バーキンのバッグでさえたじたじなんだから」
「ピラニアみたいに噛みつくのか、そのバッグ」
佳代子は子犬のように白いバッグを抱える。「いつもだとね。偽物よなんて吹聴して回るくらい陽気よ。新入りの女の子なんかすぐにだまされちゃう」そう言って崇の様子をうかがう。「でも今日は、ちょっとしたウソですら許せない。もちろん自分に対してよ。自分の気持にウソがつけないの。だからブランチなんて見てらんない。自分でついたウソに酔ってる女なんていたたまれない」
「それが正直な気持ってわけ?」
「明快でしょ?」満足気に佳代子は言う。
「明瞭会計だ、ぼったくりバーみたいだ」
「意地悪」
「で、親愛なる友人の元に置き去りにして、リスみたいにちょこまか巣に戻って、一体何をおっ始めるわけ?」
「納豆スパゲッティをつくるわ」
「天才シンガーソングライターが編み出したやつか」崇が皮肉まじりに言う。「じゃ、芝居がはねたあと、ピアノの弾き語りを聴きながらフレンチのフルコースをいただくってオレの計画を、ものの見事にボツにするわけだ?」
「避けられないわね」
「どうしたら避けられる?」
「分からないわ」佳代子は恨めし気に言う。「ね、電話してくれない? お願い」
崇が残ったワインを飲み干す。観念すると、おもむろに席を立つ。
カフェの外に崇が出ると、入れ違いに若い男が入って来る。何だか見計らったような入り方だ。男はカウンターに座り、取り出したタバコに火をつける。グラス・ビールが運ばれてくる。
佳代子はぼんやりと男を眺めている。見覚えがある、と思う。
背中に崇の気配を感じる。
「松本くん、どうだった?」佳代子は慌てて言う。
「運悪くご在宅さ」崇が腰を下ろす。「一日の半分以上は睡眠に費やしてたって声してた。呑気なもんだ」
「それで?」
「カバの口みたいに喜んでた」
佳代子はくすりと笑う。松本の表情が目に浮かぶ。「今回はどんな理屈をつけたのかしら。偶然そうに」
「偉大なる母性の作家の、めめしさなるものについて考察してるそうだ。テネシー・ウィリアムスは偉大なるマザコンだとさ。まったくネジが一本足らない」崇が佳代子の視線の先をたどっていく。「知り合いなのか」
崇が視線を戻すと、驚いた様子もなく佳代子は頷く。
「これ見よがしだな、あのフランス式喫煙法」佳代子の顔色をうかがう。
「今気づいたけど、一日置きに顔合わせてる人だわ」
「君の追っかけか?」
「パルコの警備員よ。いつも自衛隊みたいな制服着てるから分らなかったけど、夕方になるとニコニコしながらまわってくるわ」
「間抜け面だ」
「そうでもないのよ」佳代子は軽く否定する。「何て表現したらいいのかしら。昔パルコが流してたCMみたいなことをやってくれたんだな。憶えてる? ジャン・ギャバン風に孤独なうしろ姿をして、ひとこと言うやつ」
「忘れた」
「男ってのは」佳代子は嬉しそうに言う。「出演料は言えないよ、て。素敵じゃない」
「へえ、そんな素敵なことやってくれる男なのか。あの野暮くさい疲れたジャンパーの男は?」
「そうよ」男を眺めながら佳代子は言う。「エレベーターの下に落っことした鍵をわざわざ捜し出してくれたんだもの」
「誰が落としたんだ?」
「もちろん私よ」佳代子は小気味よく言う。「昨日の朝だったわ。奇跡的て言うのかしら。慌てて業務用のエレベーターに跳び乗った拍子に、エレベーターとフロアの隙間に店の鍵を落っことしたのよ。ホール・イン・ワンと叫びたいところよ。で、そのことを警備の人に話してスペア・キーを借りたの。そのときよ、あの人も聞いてたんだわ。今朝タイムカード取ろうとしたら、車のマスコットみたいに揺れながら鍵がかかってた」
「どうして君が失くした鍵だと判る?」崇が不機嫌そうに言う。「昨今3分もあれば何でも解決する」
「ちょっと汚れてたけど、間違いなく店の鍵だったわ。黄色いリボンがついてたから」
「『幸せの黄色いリボン』か――」
「それですごく感激しちゃって」佳代子は言葉をさえぎる。「よく軽口たたき合う警備員にこっそり訊いたのよ。昨日エレベーターの下に落っことした鍵、探し出せるのかしらって。すると、あいつが一人で見つけたらしいって教えてくれたの。何でも、アクロバット的にエレベーターの下に潜り込んで、懐中電灯で探し当てたんですって、やるもんだわね」
「へえ、その何だな」崇がわざと低い声で言う。「エレベーターの下の鍵釣り男ってのが、あの風采の上がらぬ警備員なんだな」
「そうよ」佳代子はあっさり言う。「いろんな特技があるものね」
「フランス式喫煙法か」崇が仕方なく言う。「でも何か魂胆がなきゃ披露なんてしないぜ、おいそれとは」
佳代子は素直に頷く。
崇が深呼吸し、脳味噌によりをかけて言う。「いいかい。君は、自分が綺麗で、釣りたてのデメキンみたいにピチピチしてるってことに、今の今まで気づいたことがあるのかい?」
「もちろんよ」佳代子はむきになって言う。「でも私の目は、顔の半分を占めるくらい大きくなくてよ」
崇がじっと見つめる。「君は、オレにとって自慢だ。誰にも負けないくらい美しい」少し間を置いて言う。「ただし、そう感じるのは、君が、他でもない君自身がそのことをまるっきり忘れてるときなんだ」
佳代子は崇の目を見る。真剣な目だ。
「君は、すれ違う男たちが首の骨を折りかねないくらい、君を振り返って見てるってのに、まるで自分の歩行者天国みたいに道を闊歩したもんだ。それから君は、まわりの男たちの視線がスペースシャトルの打ち上げのときみたいに注がれてるってのに、地下鉄のシルバーシートに腰を下ろして、サリンジャーの短編小説を読み耽っていた」崇が一気に言う。「だからいつも君は、君だけの世界でキラキラ輝き続けていたんだ」
佳代子は涙ぐんでいる。「私、分からないの。分からないけど、あなたの気持を大切にしたい」
「どう大切にしてくれる?」気を静めてから崇が言う。
「そうね」佳代子は少し考える。「私はね、同じバッグを2日続けて持っていかない女よ。だから毎朝のようにバッグの中身を、必要なこまごまとしたものをきちんと今日の分に移し変えるの。そうしなきゃ、新鮮な気持で家を出ていけない」佳代子はワインを一口飲む。「でも私って、時々肝心なものを忘れてしまうのよ」
「さしずめオレは、バッグのストラップか」
「違うの」佳代子はうろたえる。「正直言って、すごく後悔してるの。このまま素直にあなたについて行って――」
「悪かった」崇が慌てて言う。「また次の機会があるさ」とあっさり切り上げる。
「ごめんなさい」
「そのときは、とびっきり上等の笑顔を見みたいね」
「約束するわ」
やれやれといった顔で崇が立ち上がる。「じゃ、行くよ」
「お二人によろしく」
崇がレジで勘定を済ませる。トレンチコートをなびかせ颯爽と店を出て行く。やっぱりカッコいい、と佳代子は思う。
佳代子の耳に歌が流れてくる。知っている曲だ。ビリー・ジョエルの「素顔のままで」だ。目を閉じ、気を休めるように口ずさむ。
「失礼ですが」
気づくと、男が目の前に立っている。
佳代子は笑顔になる。パッとまわりを明るくする笑顔だ。以前崇が言ったことがある。停電なんて怖くない。君が笑いさえすればグラスにボトルがつげる。
「こんばんは」佳代子は明るく言う。
「あ、こんばんは」おずおずと男が口を開く。「僕の顔、見覚えありますか?」
「パルコの警備の方」
「そうです」男は安堵の笑みを浮かべる。「分からないかと思ってました」
「そう言えば、制服着てらっしゃるときとは随分感じが違うみたい。人って変われば変わるもんなんですね」
男が照れくさそうに笑う。
「ちょっといかめしい感じするでしょ、警備員の制服って?」
「そんなにいかめしいですか」
「敬遠しちゃうわね。声をかけられるまで。でも今は敬遠してません」佳代子は人なつこい笑みを浮かべる。「よかったら座りません」
「どうも」男が崇と同じ場所に腰を下ろす。
「で、何か用でしょ?」
「僕をご存知なかったら、困ってました」
「そうね。初めて口をきくときってドキドキするけど、結構つまんないやりとりするでしょ? 人を道路標識か天気図みたいに扱っちゃうから」
「それは言えますね」
「でしょ? でもあなたはタバコ吸いながらじっと待ってらした。タバコ一箱分の価値があるのかしら」
「少なくとも僕にとって」男が躊躇しながら言う。「あなたのバッグくらいの価値はあるかと」
「あら、どうして知ってるんです。バッグに目がないってこと?」
「分りますよ。同じバッグ見たことないですから。非番のときでも」身を乗り出して男が言う。「それってエルメスですか?」
「驚いたわ。その通り」佳代子はまじまじと男の顔を見る。
ここぞとばかりに男が話し出す。「あなたに用ってのは、実はこの前、大学時代の友人と一緒に店の通用口の近くで待ってたことがあるんです。もちろんあなたは気づかなかった。とても急いでたみたいだし、僕らは僕らでコートの襟を立てて張り込みの刑事みたいに用心深く見守ってたから。それで友人が、僕の仲間では女性を見る目があるっていうか、ほんの数秒間あなたが通り過ぎる姿を見て、とっても魅力的だと言ってくれたんです」
「そのお友だち、一緒じゃないの?」佳代子はわざと言う。
「速攻解雇しました。節操ないやつなので」
「で、私と?」
「……交際したいと思ってます。気を悪くされました」
「そんなことないわ。ありがとう」佳代子はワインを飲み干す。「でも困ったわ。実のところ」
男が落ち着かな気にタバコに火をつける。
「私、初めてなのよ。改めて申し込まれたの」佳代子は少しだけ微笑む。「大学時代、私のまわりに結構楽しい男の人たちがいたのね。パーティだとかパブとかで知り合いになって、ワイワイやってるうちにいつの間にかつき合うようになって。それでそのまま、友だち以上恋人未満なんて関係が続いて。だから何て答えたらいいのかしら。私ひとりで決められないってところがあるのよ。分ります?」
「無理ですか? 個人的には」
「そうね、そう言えなくもないわね。あなたにしたって一人で独占しようって気ないでしょ? 仮の話だけど」
「オープンな方が楽しい」
「私もそうなの。知り合いが増えるってことは楽しいことだわ。特に風変わりな人は大歓迎」佳代子は楽しそうに言う。「だいたい私の男友だちって、エキセントリックって言うのかしら、一緒にいるだけで笑い死にしそうになるのよ。あるコンビなんか、人が陽気にお酒を飲んでるところにやって来て、平気でまるっきりウソの喧嘩をおっ始めるの。かなり派手にやり合って、シャレで済まない状態までやり合って、それこそまわりをお通夜みたいに黙らせてしまうの。狂言だと知ってる私なんか、堪えきれずつわりもよおしたみたいに店を飛び出しちゃう。その点、あなたも彼らに負けないくらい大胆なことするのね」
「からかうつもりじゃ――」
「いいえ、鍵のこと。あなたがわざわざエレベーターの下から釣り上げて下さった鍵のこと」
「どうして僕だと分ったんです?」
「あら、仕事仲間の人たちに吹聴してまわったんじゃないかしら」
「バレてたか」
「そうよ。私が落っことしたはずのお店の鍵が、翌朝出勤してきてタイムカードにかけてあって、やっぱし日頃の精進のせいだわ、なんて都合よく思わないもの」
「お役に立ちました?」
「もちろんよ。とっても助かったわ。うちの店長、頭を鳥の巣みたいにしてるオバサン、あの人からぶつくさ言われずに済んだわ」
「よかった」
「ねえ、この店でよかったら」佳代子はあっさり言う。「お礼に夕食をご馳走するわ」
注文したスパゲッティが運ばれてくる。
二人はグラスビールで乾杯をし、黙って食事を始める。
「あなた、『死刑台のエレベーター』て映画見たことあります?」あらかた食べ終る頃、佳代子はおもむろに口を開く。
「マイルス・デイビスの演奏なら聴いたことあります」
「やっぱし」佳代子はグラスに口をつける。「私ね、あなたの武勇伝を聞いたとき、映画のあるシーンを思い出したの。それでもしあなたが見てたら、とてもあんな真似できなかったじゃないかって思うの」
「そんなに怖いんですか?」
「思わず声を出しそうになったわ」気をもたせるように佳代子は言う。「主人公の男がエレベーターに閉じ込められて、それを知らない不倫相手の女がカフェで待ちぼうけを食って、仕方ないから夜のパリを捜しまわるって話なの。それで男は、エレベーターの床板を外してロープを伝って降りようとするんだけど、夜警が来て電源を入れちゃう。エレベーターはみるみる降下していって、まるで井戸の底に落ちてくみたいだったわ」
男が苦笑いをする。「僕は、とにかく夢中でした。あれからまだ一日も経ってないけど、思い出せないんです。どうやってこの手で鍵をつかんだのか。ただ、胸の悪くなるようなふきだまりの中から、キラリとするものを見つけた。ハッキリ憶えているのはそれだけなんです」
「何なのかしらねえ、男の人って、何か一つのことに夢中になると、見境なくなっちゃうのよね。たとえ誰かのためって大義名分があっても、やってることだけで悦に入っちゃう。だから女の入り込む余地がないのよ。揚句に置いてきぼり食っちゃって、気づくと雨に濡れてるってことがあるのよ……」
男が戸惑ったように頷く。
佳代子はふいに顔を上げる。「あなたまさか、本職ってわけじゃないでしょ、警備の仕事」
「アルバイトです。この2年間随分転々としたけど、今の仕事が一番時間に余裕がある」
「作家志望だとか」
「弁護士志望です。今まで3度失敗して、勲章が3つに増えた気分ですよ」男が自嘲気味に言う。
「そうだったの。私の友だちって自称芸術家が多いのね。勝手に前途有望とか言ってるけど、俳優とか作家とか写真家とかデザイナーとか、やたら個性的な仕事を目指してるの。その癖、本業とは関係ないところじゃ、絵に描いたようなバカ騒ぎっていうか、ひどく才能豊かなおふざけをやるの」佳代子は一息つく。「あなたは、どうなの?」
「僕は平凡です」
「どう、平凡なの」
「やることすべてが型通りになってしまうんです」男がビールを飲む。「僕が高校生のとき、ある女の子が好きになったんです。で、文字通りにわか詩人になって、幾晩も幾晩も思い悩んで、彼女に捧げる詩を書いたんです。でも彼女に手渡すことなんてできなかった。次に僕は、彼女の気を引くようなことをあれこれやったんです。あるとき学校の廊下で彼女が同級生の女の子と立ち話してるとき、僕はつかつかと彼女たちの前に行って、口笛を吹きながらこれ見よがしに窓から跨いで教室の中に入ったんです。すぐまた同じやり方で廊下に出た。そしてすました顔で去って行ったんです。案の定、僕の背中で彼女たちが笑ってました。それから少々得意げに歩き出すと、すてんと頭からころんだんです。誰かが濡れた雑巾を置いてて、それに足をとられたんです。首の骨を折るとこだったな。大爆笑だったけど」男が楽しそうに言う。「またあるとき、友だちとふざけ半分に手にタオルを巻いてボクシングの真似事をやってたんです。すると偶然彼女が通りかかった。僕はチャンスばかりに友だちの顔面を思い切り叩いた。快心の一撃だったな。それで友だちが怒り出し、僕らは本気で殴り合いを始めたんです。彼女も周りの同級生たちも茫然と眺めたまま。先生に止められる頃には、二人とも顔中傷だらけになってしまって。おまけに、あいつとは二度と口をきかなくなった。そのまま僕らは卒業してしまい、彼女は3年後に誰か知らない男と結婚したんです」
佳代子はビールを飲みながら聞いている。「あなたにとってそれが平凡なことなの? 型通りなの」
「そうです。動かし難い運命かな」
「どうしてその運命を変えようとしないの。変えようとしなきゃ、進歩なんてないでしょ?」
「自分なりに頑張ったと思いますよ。でも、彼女は手に負えないくらい綺麗だしもてるし、僕は救い難いくらい平凡で相手にしてもらえない」
「そうね。確かにあなたはそれなりに努力してるわ。わざわざ私なんかのために、埃まみれになって危険を冒してエレベーターの下から店の鍵を捜し出してくれたから。感謝してるわ」佳代子は絞り出すように言う。「でもあなたの期待に添えそうにないの」
「やっぱり恋人だったんですか。さっき話してた人は」
「いいえ、違うわ」佳代子はすまなそうに言う。「彼とは、婚約してるの」
「そうかあ」男が溜息をつく。
佳代子はあわただしくバーキンのバッグを手に取り、伝票を握りしめる。「あの、私、急用を思いついたの。行かなくちゃいけないところがあるの」と立ち上がる。
驚き男が見上げる。
「私の方から誘っておいて悪いけど」佳代子は頭を下げる。「さようなら」
カフェの自動ドアが開くと、佳代子はまっしぐらに電話ボックスに入る。テレホンカードを差し入れ、ダイヤルを回す。信号が行くと、すぐに受話器を取る音が聞こえる。「松本くん?」佳代子は受話器に向かって言う。「よかった、助かった。……うん、ちょっとね。頼みがあるんだけど」すぐに返事が聞こえてくる。「そう、ありがとう」
佳代子は気が抜けたように受話器を下ろす。白いバッグに目をやる。背筋をしゃんと伸ばすと、市民ホールに向かって歩き出す。パルコのネオンが目に入る。歩きながら改めて思う。一人になんかなれない。
(文・坂本亮・1980)
イメージ・ソング 「素顔のままで」(歌:ビリー・ジョエル)
おまけ 「幸せの黄色いリボン」(歌:トニー・オーランド&ドーン)
引用した映画
「欲望という名の電車」(監督:エリア・カザン)
アメリカ映画 1951年製作 原題:A Streetcar Named Desire
原作:テネシー・ウィリアムス
米アカデミー賞主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、美術賞(白黒部門)受賞
ゴールデングローブ賞助演女優賞受賞
英アカデミー賞英国女優賞受賞

メーカー:ワーナー・ホーム・ビデオ
メディア:DVD
「死刑台のエレベーター」(監督:ルイ・マル)
フランス映画 1958年製作 英題:Elevator to the Gallows
音楽:マイルス・デイビス
ルイ・デュック賞受賞

メーカー:紀伊國屋書店
メディア:DVD
コメント ( 1 )
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すみません。時間が時間だし、本編が長すぎて半分読むのが精一杯!ちょっと一昔前のトレンディードラマっぽくもあり、フランス映画プラス日本的な風刺、情景描写って感じがしたが、苦手な人も多いのでは(ごめんなさい実は俺も!!)。ついでに登場人物の「佳代子」でいちいちオアシズ大久保を思い出してしまう!!導入部分の「ブログやめます」にはびっくりした。つかみはOK!