いつも心にハーモニイ 1988


「ドント・ウォリー・ビー・ハッピー」(歌:ボビー・マクファーリン)
 いつも心にハーモニイ 1988
 何かいいことがあると影山崇は少年のようにはしゃぎまわる癖があった。とりわけそれがデートのことだと黙っていられない。彼はおしゃべりだった。たとえ相手が千キロ彼方に住んでいようと気の済むまで電話でしゃべり続けた。平凡に過ごした時期、デートの相手がいなかったり、デートを断られたときですら、しゃべり続けた。そして決まって最後に、人生に見放されたと言う。
 そんな崇がはしゃぎまわる声と人生に見放された声を8年間も聞かされたのが、高校からの親友、堀井悠介である。彼と崇はクラスこそ一緒にならなかったが、クラスメート以上の絆があった。二人とも先輩が結成したコーラス・グループの一員で、そのグループに参加した同級生の女子に密かに心を寄せていたのである。お互いにそのことを認めたのは、同じ予備校に通い始めてからだった。
 今崇はグランド・ホテルのロビーの安楽椅子に座り、CDウォークマンで「カクテル」のサントラを聴いていた。ビーチ・ボーイズが22年ぶりに「ココモ」でナンバーワンを獲得した。だが彼はボビー・マクファーリンのア・カペラを繰り返し流している。「ドント・ウォリー・ビー・ハッピー」は、デートを決めるときの新たな彼のテーマ曲だった。
 グランド・ホテルはこの街で最も古いシティ・ホテルである。東京にいるときから待ち合わせにホテルのロビーを利用することの多かった崇にとって、このホテルは満更ではないと思う。一人一人がゆったりと座れる安楽椅子がテーブルを囲んで六脚ずつあり、それぞれ四つのテーブルがフロントに向かってU字型に配置してある。
 どうやら7時というのは恰好の待ち合わせ時刻とあって、正面玄関を向いた若い男女が多く見受けられる。満面に笑みを浮かべたカップルが目の前を通り過ぎていく。崇はその様子を眺めながら、明日の自分と彼女であるかのように夢想した。デートのOKも取り付けないうちからそんな芸当ができるのは、お前くらいだと悠介は言う。


Jim Beam
Jim Beam / Andrew*

 22階のスカイ・レストランに着くと、崇はボックス席に案内された。窓際の席は家族連れかカップルに占領されている。メニューをざっと眺め手ごろな値段のディナー・セットを注文したあと、窓の外に目をやった。夜景が素晴らしい。この街の中心地が余すことなく一望できる。数珠状に流れる車のライト、色とりどりに点滅するネオンサイン、林立するビルの窓からもれる無数の灯。やはり明日のデートはここしかないと崇は思う。
 あらかた食べ終わる頃になって、崇は窓際の一番奥のボックス席に座ったカップルに目を留めた。背中を向けた中年の男はいかにもビジネスマン然としたスーツを着ており、肩幅が広く、やや長めの髪にいくらか白いものが混じっている。相手の女は25歳くらいの丸顔の美人で、ウェーブのかかった長い髪が胸まで伸びており、若草色の細身のジャケットがキャリア・ウーマン的な印象を与える。カクテル・グラスを片手に男と窓の外を交互に眺めながらしゃべる様は男の有能な秘書と見えなくもない。あるいはわざとビジネスライクを装って黒縁の眼鏡をかけているので取引先の敏腕なる女主任かもしれない。いずれにしろ、十メートルほど先ではっきりと顔が見えないが、女には何か崇の甘酸っぱい懐かしさを喚起させる雰囲気が漂っている。もしかして彼女に見覚えがあるのかもしれない。
 崇は気づかれないよう控えめに視線を送りながら彼女を観察した。するとふいに女が立ち上がり、セカンドバッグを持って崇の方に歩いてきた。崇は慌てて目をそらした。そして彼女が目の前を通る直前を見計らって素早く顔を見た。瞬間、心臓が早鐘のように鳴り出した。あの黙ると心に突き刺さるような翳りのある目をするのは小谷涼子だ。体を小刻みに震わせながら振り返ると、スカートから伸びる細い脚をシャープに動かしながら歩いていく。いかにも彼女らしい歩き方だ。
 すると崇の心の中に懐かしいメロディが流れてきた。彼女が好きだったボロディンの「ダッタン人の踊り」である。今や崇の目に映る女のうしろ姿は高校時代に憧れてやまなかった涼子の成長した姿だった。
 崇にとって涼子の存在は憧憬以外の何ものでもなかった。崇の抱く彼女のイメージは三つの異なった少女の装いをしている。それは偶然二人だけになった数少ない想い出から成り立っている。初めて涼子と二人だけで話したのは、コーラスの練習でいつも使う音楽室だった。そのとき言葉に窮した彼女は、突然「ダッタン人の踊り」を聴いたことある?と尋ねた。中学のとき音楽の時間で、と驚き崇が答えると、「私、あの曲が大好きなの」と言った。「特にオーボエがやるせなく奏で始めてからオーケストラに女声コーラスが絡むところ、あれは最高だわ。だから合唱部に入る気になったの」と告白した。
 早速そのレコードを買った崇は曲を聴く度に、一人シルクロードに佇む涼子の姿を思い浮かべた。あの翳りのある彼女の目は遊牧民族の衣装にこそふさわしい。コーラス・グループをやっていた高校二年生の頃は少なくとも週に二度は練習で一緒だったのに、不思議と歌っている姿をよく覚えていない。
 彼女はまぎれもなく美少女で、セーラー服がとても似合ったが、彼の想い出は誰の目にも映る同じような姿ではなかった。一度だけ崇が所属する放送部の狭い部室で彼女を間近にしたことがあり、セーラー服の胸のところに乳首が浮き上がっているのが見えた。以来それがなまめかしく脳裏に残り、単なる片想いでなく性的な憧れも生まれた。
 彼女の誕生パーティのことも忘れられない。同級生の女子に呼ばれたのは最初で最後だったが、たまたま外に出ていた彼女が崇を迎える恰好となり、自分のために着飾っているような錯覚に陥ったのだ。そのとき涼子は典型的なリセエンヌルックの白いドレスを着ており、崇にとって天使が舞い降りてきたように思えた。
 しばらくの間、崇は興奮を抑えきれなかった。それらのイメージが次々と思い浮かび、少年のように憧れに満ちていたからだ。慌ててジム・ビームを注文し、運ばれてくると一気に半分ほど飲み干した。喉元がかっと熱くなり、それが胃袋までゆっくり降りていく。すると次第に落ち着きを取り戻した。
 やがて化粧室から彼女が戻ってきた。テーブルにつこうとしたとき、記憶より背が高いような気がした。おそらくハイヒールを履いているせいだろう。髪を撫でつけ背筋を伸ばし見繕いを整えると、崇は刺すような視線で彼女を見つめた。高校を卒業して以来何度か街で見かけたが、視線をそらしてやり過ごすことはしない。いまさら躊躇するような歳ではないのだ。彼女が思い出そうと出すまいと構うものか。少しでも長く憧れの涼子と同じ空間にいれば満足だ。そう思いながら崇は、カクテルに口をつけ夜景を眺める彼女を見続けた。
 再び男と話し始めたとき、彼女は視線に吸い寄せられるように崇の方を向いた。同時に崇は彼女と目が合った。それまでぼんやりとしか見えなかった彼女の顔が一瞬鮮やかに目に映った。それは驚きと共にたちまちにして崇だと分かった表情である。次の瞬間彼女は、まるで人質から解放されたかのように安堵の微笑を浮かべ、席を立って通路に出てきた。反射的に腰を浮かした崇は、そのままの恰好で彼女を迎えた。驚いたわ、と言いながら涼子は崇の目の前に立った。
「懐かしくて見とれてたよ」と彼女を見上げるようにして崇は言った。何だか夢を見ているようで自分の声ではない。
「とんでもないところ見られたわね」涼子は笑いながら昔と変らぬ澄んだソプラノで言った。「座ってもいい?」
「ああ、どうぞ」自分が中腰のままでいることに気づき、崇は慌てて腰を下ろした。
 涼子が椅子を引きゆるやかに座ると、初めてシャネルのネックレスをしていることに崇は気づいた。今の彼女を象徴するかのように大人の上品さを感じさせる。そして思い出したように黒縁の眼鏡をはずした。崇は改めて彼女の顔を見た。おそらくナチュラル・メイクのせいだろう。永遠の美少女と言うべき童顔が高校のときからほとんど変っていない。それに笑うと左側にできるえくぼも小作りな鼻も相変わらず愛嬌がある。ただ、薄い唇に少し濃いめにつけた赤い口紅だけがそそるような色気を漂わせている。
「何年ぶりかしら」と彼女は崇の顔を眺めながら言った。
「1979年の11月以来だから、ちょうど9年ぶりだよ」崇は即座に答えた。この際街で見かけたことは勘定に入れないでおく。
「相変わらず数字は正確なのね」と彼女は言った。「でもどうして11月なの?」
「ほら、俺たちが予備校に通ってるとき、悠介と一緒に小谷の大学に遊びにいったじゃない?」
「ああ、学園祭の時ね。思い出した。確か私が入ってたテニス部の模擬店でたこ焼きなんか買ってくれたのよね」涼子は愛嬌のあるえくぼを作ってくすくすと笑った。「でも久しぶりだわあ」
「ほんと、久しぶりだね」
「その久しぶりじゃないのよ。小谷なんて名字で呼び捨てされるのが久しぶりなのよ。懐かしいわ」と言った。咎めるわけではなく、むしろ面白がっているようにさえ見える。
「ああ、そうかあ」と崇は苦笑いをした。
「何だかちっとも変らないわね、影山君って。高校のときから」
「少なくとも歳より若く見えるって言われるよ。いい意味でも悪い意味でも」
「損することってあるの? 若く見られて」
「あるある。この前夜中にウイスキー買いに行ったらウーロン茶しか売ってもらえなかった」
「嘘ばっかし」そういう涼子の言い方は今すぐセーラー服に着替えてもさほど違和感がないように思われる。それにしてもどうして彼女とこんなに気楽に話せるのだろう。崇は我ながら驚いていた。
「ねえ、今でも東京なの?」
「実は仕事替わってこっちに戻ってきたばっかりなんだ。教会の裏にある情報サービス会社だけど」
「あら、じゃ、私のデパートから遠くないじゃない」
「そう言えば、すぐ近くだったな。すっかり忘れてた」崇はとぼけてそう言った。
「忘れてたんじゃなくて、まだ勤めてるなんて思わなかったでしょ。適齢期過ぎてるから」
「そんなことないさ」と言いながら、27歳ともなればやはり女の方が歳を気にするものだと崇は思った。「俺が見た限り、キャリア・ウーマンやってるって感じがするな。中年相手に張り合ってたりなんかして」
「やだ。そんなに長く見てたの?」
「初めて気づいたのは化粧室に行ったときかな。あんまし女ぽくなってたから分からなかったよ。正直言って」
「最近子供ぽくなったって言われるわよ」
「そりゃ童顔だからさ。でも雰囲気だけは隠しようがないね」
「具体的にどこが女ぽくなったと思う?」涼子は満面に笑みを浮かべてそう尋ねた。
「何て言うか」と言いながら崇は彼女の姿を仔細に眺めた。すると涼子はニュース・キャスターのようにしゃんと背筋を伸ばし、テーブルの上で両手を重ねた。「ぱっと見た目は赤い唇なんだけど、よく見ると、さり気ない仕草に雰囲気を感じるよ。例えばカクテルの飲み方とか、椅子の座り方とか。それにその着こなしだって、スカートのポケットに手を突っ込んで歩いたら完璧じゃないかな」
「へえ、随分センスいいこと言うのね」と彼女は感心して言った。「救いがたいくらい野暮だった人の言葉とは思えないわ」
「救いがたいってのは余計だろ」
「だってその恰好見れば誰だってそう思うんじゃない。いかにもブランド物って感じの素敵なスーツ着てるから。誰か専属のスタイリストでもいるの?」
「いれば一人寂しくこんなところで飯なんか食ってないよ。でもビジネス用としてはベストなんだ」
 このスーツはちょうど三年前につき合っていた彼女が見立ててくれたもので、崇にとって一番のお気に入りだった。彼は結果的にふられても、うまくいっていた頃を象徴するものに対し未練がましく愛着を抱く癖があった。だがそんなことを正直に話す必要はない。
 涼子は意味あり気に微笑を浮かべると、胸に落ちた長い髪を後ろに払った。「相変わらず飛びっきり辛いカレーなんか作ってるの?」
「え? いまだにいろんな料理法を試してるけど」と驚き崇は言った。「どうして知ってるの?」
「ほら、いつか言ってたじゃない。日曜日に誰もいないとき、時間かけてカレー作るって。それでぐつぐつ煮込んでる間に自分のパートの練習するって」
「確かに、あの頃そんな真似してたな。でも直接小谷に言ったことないよ」
「じゃ、堀井君からでも聞いたのかしら」あっさり涼子は記憶違いを認めた。「それで思い出したけど、一度彼が一人で家に遊びに来たことがあるのよ。三年の夏休みだったかしら。その話聞いたことある?」
「いや、知らないな」崇は動揺を隠すように抑揚のない声で訊いた。「ただ遊びに来ただけ?」
「そうよ。もっともあの時香織が一緒に来る予定だったんだけど、ほら彼女、すぐに外国行っちゃうでしょ」と眼鏡をもてあそびながら涼子が言った。「それでせっかく覚えたからと言って私の部屋で何歌ったと思う? ビージーズの『愛はきらめきの中に』よ。驚いたわ。て言うか、よくあんな高い声出せるわと思ったわ。ベースやってた人が――」
「そういや、気に入ってるとか言ってしょっちゅう歌ってたな」
「あの時思ったのよ。やっぱりみんなリード・ヴォーカルやりたかったんじゃないかって。影山君も本当はやりたかったんでしょ?」
「コーラス好きなら、後ろに従えてやってみたいと思うよ。最高にいい気分だからね」と陽気に崇は答えた。だが本当にやりたかったのは涼子とのデュエットなのだ。「でも俺は一番下手だったし、失敗するといつも香織に睨まれてた」
「そんなことないわよ。一生懸命練習してたじゃない」と涼子は崇の目を真剣に見た。「知ってるのよ。学校のそばの公園で毎日一人で練習してたってこと。だから香織も口じゃうるさく当たってたけど、練習来る度にどんどんうまくなってるって認めてたのよ」
「元が下手だったからね。何とか片言の英語が喋れるくらいの進歩さ」と崇は照れ臭そうに言った。
「練習だけじゃないわ。ほら、みんなでピクニックに行ったじゃない。そのとき、弁当作るの面倒だって香織が言うから影山君が代わりに持ってきたでしょ。サンドイッチとか卵焼きとか結構自分で作ったりなんかして」
 崇は思わず微笑んだ。「つまんないこと覚えてんだな」
「味はまあまあだった気がするけど、みんな感心してたわ。何事につけ一生懸命だって」
「お陰で、あたしの代わりにピアノ伴奏やったらって香織にからかわれた」
「彼女って小さい頃から年上とばっかり遊んでたから、何かと同級生をバカにするところがあるのよ。だからすぐにからかうのね。私も何度かやめなさいよって言ってみたんだけど、ああいう気性でしょ? 言えば言うほどつむじ曲げちゃうのよ。助けになれなくて悪かったわ」
「今さら小谷が謝ることじゃないよ」
 そう言ったものの崇としては青天の霹靂だった。一方的に彼女に憧れていただけなのに、自分が考えていた以上に彼女は崇のことを気にかけていたのだ。崇は内心涼子に向かって叫びたかった。香織にけなされようとからかわれようと、あんなにがむしゃらに頑張れたのは涼子が好きだったからだ、と。少しでも彼女の印象に残ることなら、バンジージャンプだって辞さなかっただろう、と。だが忘れてはいけない。当時の彼女はリード・ヴォーカルである一年先輩の望月とつき合っており、密かに心を寄せていた崇にしても悠介にしても手が出せなかったのだ。もっとも悠介は香織と仲がよかったので、事実上グループの中で崇が三枚目的な存在だった。
 崇は努めて平静を装ったが、こみ上げてくる彼女への想いを抑えきれなかった。慌てて残りのジム・ビームを飲み干した。「すっかり忘れてたんだけど」と気を落ち着かせてから言った。「何か飲まない? 連れをほっといていいんだったら」
「ああ、気にしなくていいわ。時間が来れば一緒にパーティに行かなきゃなんないから」と男を振り向かずに涼子は言った。「だから飲み物も結構。悪いけど」
「分かった。でも残念だなあ」と崇は思い入れたっぷりに言った。
 彼女はすまなさそうに微笑んだ。何か事情があることは明らかだが、ことさら口に出して言い訳する様子もない。
「ねえ、一度訊きたかったんだけど」とふいに思いついたことを尋ねた。「どうして俺たちのグループに入る気になったの? もちろん香織に薦められたからだろうけど」
「自分の可能性を試してみたかったのよ。中学の合唱部ってほとんどクラシックばっかりでしょ。黒人のドゥーワップなんて私にとって冒険だったのよ」
「へえ。冒険であれだけ歌えればたいしたもんだよ」と言いながら崇は涼子の歌う姿を思い出そうとした。それは憧れの美少女としての涼子ではなく、見慣れた高校時代のありのままの彼女だった。「今でもたまに予餞会の録音を聴くけど『ソー・マッチ・イン・ラヴ』が最高だね。特にリードに絡むソプラノなんか鳥肌が立つくらいぞくぞくする」
「大袈裟ね」と涼子は照れ笑いをした。「でも本番が一番うまくいったんじゃない。やっぱり沢山の人が見てたから」そう言うと感慨深げに窓の外に目をやった。それはほんの短い間だけだったが、一瞬翳りのある目で夜景を眺める横顔は、崇に一層いとおしい気持ちを募らせた。再び涼子は崇に向かって言った。「今でも思うけど、あの頃が一番よかったって気がするわ。何がよかったってうまく説明できないけど、みんな一生懸命頑張って練習してたってことかしら。一生懸命やったときって今から考えるとほんのつかの間だけど、その間だけは純粋だったような気がするの。この歳で感傷的かもしれないけど、本当に純粋だったのよ」
「俺もそう思う。あの頃に戻りたいと思っても、二度と出来ないしね」崇は少し興奮気味に言った。「でも確実にあの頃は存在したんだ」
 そういう崇の心にはすでに明日のデートのことは跡形もなく消えていた。19歳で上京して以来数多くの女子とつき合い、結果的にみんなふられたわけだが、すべては涼子との再会のためにあったのだ。崇はそう思いたかった。振り返れば涼子に似た女子と何人かつき合ったような気がする。でも今さらそんなことはどうでもいい。ほかの女子が束になってかかっても、涼子とのコーラス体験に太刀打ちできるものはない。あの17歳の神話は二人を結びつけるために存在したのだ。
 崇はしばらくの間涼子を見つめていた。こんな目の前で、しかも躊躇することなく素直に彼女を見つめたのは初めてだった。
 そんな崇に涼子は、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。そしてふいに眼鏡をかけると、うつむき加減に立ち上がった。「影山君、今度飲みに行かない?」と言った。
「喜んで」崇は弾んだ声で答えた。
「じゃ、電話番号教えてくれない。私の方から電話するから」
 崇は素早く財布の中から名刺を取り出し、立ち上がって彼女に手渡した。「今度って、いつ?」
「一週間のうちに」と受け取った名刺を眺めながら涼子が答えた。「どんなところに連れてってくれるの?」
「こっちに戻ってきたばかりだから、洒落たところは知らないぜ」
「このレストランだって十分洒落てるわ――影山君にしては」
「参ったな。焼鳥屋とか屋台でもいい?」
「もちろん、いいわよ」
「じゃ、そのときは夜中だろうとたたき起こしてくれよ。すっ飛んでくるから」
「分かったわ」笑いながらそう言うと涼子はそそくさと男のいるテーブルに戻っていった。
 崇が二人の様子を見守っていると、涼子に追い立てられるようにして男が立ち上がり、先に立って崇の方に歩いてきた。そのとき初めて男の顔を見た崇は、うしろ姿から想像していた以上に強い印象を受けなかった。特にやり手のビジネスマンというわけではなく、かと言って女たらしにも見えない。涼子は男から二、三歩遅れて歩いてくる。二人を目で追う崇に対し、男は関心なさそうに前を向いて通り過ぎて行った。
 目の前に来た涼子は、崇に向かってニッコリ微笑んだ。そして持っていたセカンドバッグを目一杯脇に挟み込むと両手をスカートのポケットに突っ込んだ。崇は思わずニヤリと笑った。そのまま彼女は腰を振りながら歩いていき、やがてレジの前でくるりとふり返り、小さく手を振った。それはまぎれもなく少女に戻った憧れの涼子だった。崇も少年のように手を振った。そして彼女の姿が見えなくなるまでじっと眺めながら、俺は何て運のいい男だ、今夜はたっぷり2時間しゃべれるぞと思った。                                             
                                                         (文 坂本亮・1989)
「ソー・マッチ・イン・ラヴ」(歌:ティモシー・シュミット)

「ココモ」(歌:ビーチボーイズ)

「ダッタン人の踊り」(作曲:ボロディン)

引用した映画
「カクテル」(監督:ロジャー・ドナルドソン)
      アメリカ映画 1988年製作 原題:Cocktail

      メーカー:ブエナ・ビスタ・ホーム・エンタテインメント
      メディア:DVD
                                                     

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